軋む電車に揺られること40分。
九份へ向かっていた。
本を持ってきていない。
ただ窓の外を眺める。
壁が煤けた建物。壁紙がひび割れている、剥がれている家。
鉄板を組み合わせた簡素なプレハブ。
炭鉱の街並み。
ギシギシ、コンコンという音をBGMに風景を眺める。
日本生まれ日本育ち、
海外を全く知らない自分から見ると、
台湾の人ごめん、ちょっと住みたいとは思わなかった。
いや、台湾の人になにか悪い感情があるわけでは全くないんだ。
むしろ凄く良い人達だと思う。
市場の食堂では中国語喋れない僕の代わりに注文してくれたし通訳してくれたし。
自分が国内にいてこれできるか?って言われると即答できない。
でも、そんないわゆるボロ家でも、
そこに住む人はきっといて、
ちゃんと仕事をしていて、
家族を養っていて、
毎日元気に生活している訳で。
あぁ、きっと幸せなんだろうなって。
日本では年末になると宝くじが大々的に広報されて売られている。
どこかで1等に当選した人の話を聞いたことがある。
最初は思わぬ収入に豪遊して最高な生活をおくるらしい。
けど大抵、その後のお金の使い方がわからず貧者になって破産するみたい。
これ、一度上げた生活水準を元に戻す事がなかなかできないって言うところに原因があるらしい。
「幸せになりたい」なんてみんな言うけど、
僕もいうけど、
心の中ではそれが「お金持ちになりたい」に刷り変わっていることも多いと思う。
幸せ。なんだろう。
例えば台湾のスラム生まれスラム育ちの人がいたとして、
その人にとっての幸せは0ではなく、
少しだとしてもちゃんとそこにある訳で、
それが日本生まれ日本育ちの僕からみて幸せではなく映ったとしても、
その人にとっては幸せの形としてある。
じゃあ僕がその人にとっての幸せの形で同じように幸せを感じられるかというと、
恐らくそうではなくて。
僕にとっては幸せどころか不幸にすら感じるのだろう。
そもそも仮想のスラム人の幸せの定義から、なんだけど、
ここでは割愛。
それに、幸せが独立して存在するのか、
幸せと不幸の相殺が起こった結果として幸せと感じるのか、
っていう話までし始めるときりがないからやめとこう。
で、頭はどこに着いたか。
僕はまあまあ欲深いから、とにかく上へ上へ幸せの階段を登ろうとする。
より多くを知りたいし、経験したいし、金銭的にもより上のステージの生活を求めてしまう。
そこに幸せがあると信じて。
でも、上へ上へ登ろうとしても、
自分の幸せの閾値が高まるばかりなのではないか。
閾値が高まると幸せと感じられるもののレベルが高くなってしまうが故に、
日常での幸せが感じられなくなってしまうのではないか、と。
じゃあどの辺りで階段を上るスピードを緩めるべきなのか、
どこで登り続けるのをやめるべきなのか。
「べき」なんていう、最大限効率の良いポイントを探すあたりも欲深いな。
三大欲求の食欲性欲睡眠欲を安全かつ快適に満たせる環境があれば良いのか。
そこに少しの友人が居れば良いのか。
社会的に自分を認めて貰える環境が構築できれば良いのか。
自分にとっての幸せの満足値を考えるのは難しい。
じゃあ、例えば、食欲性欲睡眠欲を満たせれば幸せだとしたとして。
でも、そこには「質」っていう見逃せない要素がある訳だ。
少しでも美味しいもの食べたいし、暖かいものが食べたい。
一人でするよりも異性と、自分だけが良くなるよりもお互いが満たされるような行為でないと嫌だし。
ふかふかの布団で寝たいし、枕も自分にあった高さが良い。できれば季節に合わせて部屋も適温適湿だとありがたい。綺麗な布団がいい。
日本に生まれただけで、スラムとか途上国に比べたら高確率で比較的質の高いものを知ってしまう訳だ。
九份。閉鉱した炭鉱の街。山の一部分だけ明るい。周囲は真っ暗ということを伝えたいがために建物と暗い風景を写した1枚。どこか退廃的な雰囲気が漂う。
世界一幸福度の高い国を聞いたことがある。
ブータン共和国。
https://www.wbf.co.jp/bhutan/info/hapiness.php
国民の幸せ度を指標化して、その数値をあげることに国をあげている。
ここに何かヒントがないかな。
なんて考えていたら終点。
目的地の九份最寄り駅にたどり着いていない。
…僕は幸福度向上の前に語学力を向上すべきなようだ。